紙一重の積み重ね

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【ヘタな人生論より葉隠 感想】常に死を意識して、今を集中して生きる。

「ヘタな人生論より葉隠」を読みました。

読んだ本


ヘタな人生論より葉隠 (河出文庫)

葉隠とは

「武士道とは死ぬことと見つけたり」の名言が書かれている、広く人生論を論じたエッセイです。 江戸時代の中期(一七一六年と推定)に、元佐賀藩の武士・山本常朝の談話を、後輩の田代陣基がまとめた口述書であり、正式には「葉隠聞書」と言います。

感想

聞書第一・二 常に死を意識する

武士道の本質は死ぬことであると知った。生きるか死ぬかの場面に遭遇したなら、早く死ぬほうを選ぶことである。別に子細はない。死を選べば覚悟が定まって、まっすぐに進むことができるからだ。

当てがはずれて死ぬのは犬死にではないか、などというのは、上片ふうの打算的な武士である。生か死かの場面では、思いどおりに事が運ぶかどうかはわからない。誰でも生きる方を好むものだし、そちらに理屈をつけたがるものだ。

もし当てが外れていきながら得れば、その武士は腰抜けである。ここのところがむずかしい。当てがはずれて死んだなら、それは犬死にであり、ばかをみることになるが、恥にはならない。これが武士道の根本である。

毎朝毎夕、死を念頭において、常に死に身になっていれば武士道に自由を得て、一生まちがいなく職務に励むことができる。

これは目からウロコでした。「武士道は死ぬことと見つけたり」という序文が有名すぎて、死を推奨しているものだと思っていました。原典を読むことは大切ですね。葉隠では「武士は死ね」と言っているわけではなく、常に死を意識して覚悟を定め、充実した生を得る。という逆説を述べています。人は誰しも、いつか死にます。それを身近なこととして捉えるかどうかで、人生の充実度も変わってくるのでしょう。

聞書第一・一一七 志を立てる

名人といわれる人についていろいろ見聞し、自分などはとても及ばないと思うのは、ふがいないことである。

名人も人なら、われも人、なんの劣るところがあるものかと奮発して、しっかり取り組むなら、すでにその道に入ったに等しい。

「孔子は十有五にして学に志すといったが、その年齢で学問を志したこと自体が聖人たるゆえんなのだ。あとで修行を重ねて聖人になられたわけではない」と、石田一鼎が申されたことがある。「初発心時弁成正覚」(はじめに志を立てたときに正しい悟りを得ることができる)という仏教の教えも、まさにこのことを指している。

自分には、才能がないと言い切れるほど、本気で努力しているか。いつも自問自答します。私はいつも、余力を残して生きているような気がしています。

あれこれ思い悩む前に、孔子のように志を立てようと思います。

「我、○○歳にして、■■に志す」

このブログを始めようと思ったきっかけは、プログラミングを学んで、自分で考えたサービスや製品を作ることができる人間になりたいと思ったからです。それを踏まえると、以下になります。

「我、35歳にして、プログラミングに志す」

コピー用紙の1枚1枚の厚さは、0.09mmだそうです。それでも、1枚1枚紙を積み重ねることで、大きな厚みになります。これからも自分のペースで、紙一重の努力を積み重ねていきます。

葉隠ではありませんが、文中に出てきた以下の名言も学びになりました。

才能とは何に取り組むかをいかに早く決めるかである(坂本弘)

才能とは持続する情熱のことである(モーパッサン)

聞書第一・六一 今を心に念じて生きる

「人として心がけ、修行しなければならないことは何でしょうか」と問われた時、どのように答えたらよいものだろうか。それは、この今を心に念じて生きることである。

現代人はどうも、心がふらついているように見える。人の生き生きとした顔とは、一心不乱に何かを念じている時のものだ。様々な経験を積んでゆくうちに、自然と心の中に生まれてくるものがある。主君に対しては忠、親に対しては孝、武士道においては勇気、その他全てのことに共通する根本的な思いだ。

しかし、これを見つけるのはむずかしい。見つけても、常に持ち続けるのがさらにむずかしい。この今をしっかりと心に念じて生きるよりほかないのである。

葉隠では、人として心がけ、修行することはこの今を心に念じて生きることと述べています。これは、人生の真理の一つだと思います。

時間は巻き戻せません。過去と他人は変えられません。お師匠様の小宮一慶さんから、自分でコントロールできることに集中すべきと教えていただきました。変えられるのは、今・ここにいる・自分だけです。今が一番若いと思って、努力していきたいものです。

聞書第二・五五 死ぬことに油断しない

身分や老若に関係なく、人は悟っても死に、迷っても死ぬ。とにもかくにも、人は死ぬ定めなのである。誰であれ、このことを知らないわけではない。じつは、極意というものがここにある。

誰もがやがて死ぬと知ってはいるものの、自分だけは皆が死んでしまった後に死ぬように錯覚して、まさか今にもその順がめぐってくるとは少しも思っていない。さびしいかぎりではないか。

死というものに対しては、何も役に立つものはなく、現実はまるで夢のなかの戯れにも等しい。このことをよく自覚し、決して油断してはならない。それが極意である。今すぐにも起きる問題なのだから、しっかり心の準備をしておくことだ。

私は自分の死というものを考えたことがありません。以前、妻から「臓器提供のための意思表示カードにサインをして欲しい」と言われたことがあります。その時は、妻が死ぬということが悲しくて、とてもサインすることができませんでした。

しかし、人は誰しも必ず死にます。「自分の死後であっても、誰かの役に立てるのなら提供したい」という妻の思いも理解できるようになってきました。すぐに受け入れることはできなくても、こういう話を積み重ねることも、お互いの死に対する準備なのだと思います。

聞書第二・一七 現在のひたむきな思いに集中して生きる

つまるところ現在の一念、つまりひたむきな思いというものに徹することである。一念、一念と積み重ねてゆくことが人の一生を形づくるのだ。ここのところに思いを致せば、うろたえることも、他のものを探し求めることもない。現在のひたむきな思いに心を集中して生きるだけである。

しかし、たいていの人はここを取り違え、別の人生があるかのように錯覚してそれを探し求める。このことに気づく人はほとんどいない。

一念を貫いて迷いがなくなるまでには、多くの経験を積まなければならない。が、一度この境地にたどり着けば、常に気を張っていなくても、そこから離れることはない。人生は現在のひたすらな思いに極まっているのだと理解しさえすれば、物事は自然にうまく運ぶ。この一念にすべてが備わっているのである。

葉隠のこの文章を読んで、松下幸之助さんの名著「道をひらく」を思い出しました。葉隠も、道をひらくも同じことが書かれているように思います。

この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。慰めを求めたくなる時もあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。

(中略)

他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

自分が今、立っている場所を嘆いて、別の道を模索することはよくあります。しかし、どう考えても、自分の人生は今の道の延長線にしかなりません。天職を求めて転職するというのは、幸せの青い鳥の童話と同じではないかと思います。

天職とは、2つの意味があるのだそうです。

  • 生まれながらに身についている職務。
  • [自分の気質・能力は他の職業には向かないと考え]その人が満足して従事している職業。

天職と言うと、天から授けられた仕事のように思いがちですが、その人が満足して従事している職業もまた、天職です。自分の気質・能力が向いているかどうかは、とことんやってみなければわかりません。

何時間でも努力を重ねられる仕事は、天職の可能性が高いのではないかと思います。

おわりに

葉隠を現代語訳して、作者の解釈やエッセイも交えられたとても学びが多い一冊でした。タイトルの通り、ヘタな人生論を読むよりも勉強になりました。葉隠は1716年に書かれた書物であると言います。人として生きるために大切な原理や原則は、300年たった今でも変わっていないのだなと思います。

これからも様々な古典に触れたいと思います。